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アルマンは既成概念と戦ったのか

2009年07月11日 13:24

ヌーヴォーレアリスト達は既成概念を拭い去り、新しいアートの世界を生み出すことに挑戦しました。今まで目に留まらなかった生活の中のアートを意識することによって、人々の生活もアート自身も生き生きと輝いて行くであろうことを願っていたのだと思います。

それでは、ヌーヴォーレアリスト達は連綿と築かれてきた「美」に対して、どう答えを出そうとしたのでしょうか。

アルマンはすでに完成された美を持つ楽器や家具等を作品に使いました。彼の方法は、その完成された美を切り刻み、火を放つことでした(Colére-怒り-、Combustion-燃焼-、Coupe-切断-と名付けられたシリーズ)。

一般的にある物が破壊されたり燃やされたいたら(その上タイトルが「怒り」ならば)、それを見る人は相当ネガティブな表現として受け取ると思います。既成概念を消し去ろうとするあまり、過激すぎる表現ではないかと感じることでしょう。

しかし破壊されたり燃やされた物たちは、全てを失うのでしょうか。永遠の美も、永遠でなくなる時が来るのでしょうか。それがアルマンの実験だったのだと思います。

卓越した職人によって作り上げられたバイオリンや家具には、やはり、どう手を加えようと消し去ることのできない気品や優雅さが永遠に残ります。切り刻まれ灰になろうと、その物の持つ根本的なロマンが消えることはありません。

アルマンは「千の物を『集積』することと、千個のかけらに切り刻むことは、基本時に違いはない」と言いました。

ゴミが集積されることで新しい意味を表現しだすように、「完成された美」も破壊されることで他の新しい意味が生まれてきます。しかし、ゴミとバイオリンの違いは、アーティストの遊びを許容しながら無二の美しさを保ち続けていられるかどうかだと思います。

私は昨日ウェブサイトで初めて目にするアルマンの作品を見つけました。A la République-共和国-と名付けられたアキュミュレーションズの一つです。その作品はボロボロになったフランス国旗が集積されています。ボロボロの国旗が一つあるだけでは、物悲しさや敗退と言ったようなネガティブな感情を持ちがちですが、集積されることで、国旗の持つ揺るがない雄々しさや勇敢さが感じられました。それがボロボロに汚い状態であることが、余計にそれを引き立たせているようでした。

物は固定概念を背負わされることにより、人々の関心を引かなくなることがあります。ヌーヴォーレアリスト達はそれではつまらないと思いました。しかし消し去ろうとしても、歴然と輝き続けるものは存在するのだと思います。どのような状態でも、きらきらと眩く光っていられるものこそが本物の美しさを秘めており、どのような手を加えられようと、屈することはないでしょう。

アルマンは抗いようのない永遠なる美しさの中で遊んでみたかったのではないかと、私は思います。
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アルマンの「集積」は何を表現するか

2009年06月26日 13:09

前回の考察でゴミの蓄積は新しい意味(私の場合は人間そのものの表現だと感じた)を生み出すのではないか、と結論しました。ゴミと言えば生活廃棄物で色や形とりどりで、柔らかい物や硬い物様々です。そういうゴミを集めることと、一種類の物(アルマンの場合、古い人形-Le Village des Damnés-やガスマスク-Gay Gas Mask-など)を集積することは、発せられる新しい意味が少し変わるように思います。

まず古い人形が一つ置かれていた場合、人はどう感じるでしょうか。かわいい、汚い、愛らしい等、人それぞれに感じ方があります。それが、部屋にたくさんの人形が敷き詰められていたとすると圧倒され、怖いと感じる人が多いと思います。ガスマスクも同様に一つあるのと、集まってあるのとでは、人の感じ方は変わります。

アルマンはこう言っています。「一千平方メートルの青は一平方メートルの青よりもっと青だ。だから一千個のピペット試験管は一個のピペット試験管よりもっとピペット試験管だ。」

人が物や他人に接する場合、いつどのような場合でも先入観を持って挑みます。いくら頭で先入観を持たぬように努めたとしても、抗いようの無いものなのだろうと思います。そして、その観念は時に、自分自身の体験からではなく、環境によって自然とインプットされ、まるで先天的な持病のように振舞います。そのような先入観や固定観念を露にするのが「集積」なのだと思います。

先入観や固定観念を壊しにかかろうとしたヌーヴォーレアリストのアルマンは、きっと自分自身の心にもそういう先入観がはびこっていることに気付き、そして全ては気付くことから始まると感じたのではないでしょうか。

集積された物に触れることによって、人は色々考えるチャンスを与えられる。自分自身のことや他人のこと、歴史や社会。アルマンの「アキュミュレーションズ」は、やはり人間そのものを表現しているように思います。

ヌーヴォーレアリスト・アルマンはなぜゴミを集めたか

2009年06月20日 13:11

アルマンは1960年の第一回ヌーヴォー・レアリスム(ニューリアリズム)宣言に名前を連ねたアーティストの一人です。その宣言以前から、アルマンはパリのゴミを収集し始めていました。市の衛生管理局からのゴミの提供を断られ、2年以上もかけて友達とゴミを集めて、とうとういっぱいのゴミをギャラリーに詰め込むことを達成しました。なぜそこまでして、ゴミにこだわったのでしょうか。

アルマンのゴミを集めた作品にアキュミュレーションズ(Accumulation;集積, 蓄積-goo辞書より)やPoubelle(フランス語でゴミ箱)と言うシリーズがあります(Full-UpPetit Déchets Bourgeois 等)。意味の無さそうに見える物質をかなりの数だけ集めることに、彼は意味を見出しました。ダダイズムの頃に始まったレディメイドと呼ばれる方法では、すでに存在する物(アーティストが一から作る陶芸品や絵画のようではなく、すでに作られた椅子や便器など)を作品で使いましたが、アルマンの違うところは、集まった物達は大量のゴミでなければいけませんでした。

ゴミから発せられる表現とは何でしょうか。辿れば、デザイナーによって試行錯誤の末に出来上がり、小売店の棚に並んで買われる日を待ち、買われた後には温かい家庭の一部として家の中に存在していた、と言うような歴史がゴミにはあります。ゴミにも人間の生命と同じく、始まりがあって終わりがある、年を取っていく、と言うことです。その年の取り方には人(ゴミ)それぞれの道程があり、その今ある姿は、その人(ゴミ)の時間や環境を顕に表現します。

それでは、なぜ大量でなければいけなかったのか。アキュミュレーションズの始まりについて、彼はこう言っています。「僕は昔、絵を描くためにラジオチューブ(電気部品)を買い集めていた。ラジオチューブが乱雑に詰まった箱を見たときに、このアイデアが浮かんだんだ。」

印象派画家のジョルジュ・スーラは絵の具を一切混ぜずに、点描で風景画を描きました。近くで見ると青や赤や黄の点々でしかないものが、一歩引いてみると点々同士が目の中で混ざり合い、緑やオレンジや紫の色を生み出し、鮮やかな風景画が浮かんできます。私が思うには、スーラの点描のように、一つ一つは平凡なストーリーしか持たないゴミでも、集積されることで他の意味が出てくるとアルマンは思ったのではないでしょうか。

私はその新しい他の意味とは社会そのものではないかと思います。一人一人は他者から見れば平凡極まりのない人生であったとしても、各々はかけがえのない思い出を内包し、これからも蓄積していくであろう。ゴミがこの世から生み出されることが終わらないのと同じく、かけがえのない時間が生み出されることが終わることもない。そのかけがえのない時間がどこにでも存在する場所は社会である。

アルマンにとってゴミの蓄積は社会を反映し、人間そのものを表現していたのではないかと、私は思います。

ピエール・レスタニーのニュー・リアリズム(ヌーヴォー・レアリスム)宣言 考察編

2009年06月14日 12:00

ヌーヴォー・レアリスム(ニュー・リアリズム)はダダの40度上を行くことを宣言しました。ダダイスト達の思想は既成の、特に伝統的な思い込みを打破する事が目的でした。ルール、考え方、美観やアートの歴史などの、すでに完成された方法を壊そうとしたのです。

ダダイズムの背景には第一世界大戦への反戦の思想や、その頃のブルジョワジーへの呆れがあります。これらは、押し付けられることに反抗すること、自分の思想を貫く気持ちが、世界をも変えてしまえる力を持つことを証明していると思います。

ダダのアーティスト達の思想はアートの世界を(アートの社会での役割や、アーティストの心得など)がらりと変えました。その中で最も重要とも言える思想を打ち出したのが、マルセル・デュシャンです(彼のことは後に特に詳しく書きたいと思っています)。


既成概念を壊しにかかろうとする姿勢は、ヌーヴォーレアリストたちに強く引き継がれています。しかし、そのダダの40度上を行くとはどういう意味でしょうか。私が思うには、ダダのアーティスト達は反戦・反ブルジョワジーを強く意識しすぎて、ヌーヴォーレアリスト達には力みすぎているように見えたんじゃないでしょうか。力みすぎずに周りを見渡すことで、さらに新しい意味合いを見つけることができる。自然にそこにある物に目をやる余裕が必要なのじゃないかと、提案したんではないでしょうか。

生活の中にアートを見つける。元々アートなんていうものは、生活の中から生まれるものなんだ。その生まれる瞬間を見過ごさずに、それを意識して生活をおくれば、同じ生活でも、光り輝くものに変わるだろう。素晴らしい気付きだと思います。生活のためのアート。社会のためのアート。新しいことに気付くためのアート。

私はこの気付きが世界の全ての人に起これば、社会はがらりと変わると信じています。ダダがアートのためのアートだとすれば、ヌーヴォー・レアリスムは社会のためのアートである。だからこそヌーヴォー・レアリスムはダダの40度上のアートなんだと思います。

ピエール・レスタニーのニュー・リアリズム(ヌーヴォー・レアリスム)宣言 完全版

2009年06月13日 16:44

以前にヌーヴォー・レアリスム宣言の訳を中途半端にしたまま、終わってしまっていたので、全文の訳をしました。以前に訳したものとややこしくなるかと思うので、「その1」は削除しました。訳者注のカッコ内は私の勝手な解釈なので、参考程度に思って頂いた方が良いと思います。


ネオダダがアメリカで生まれた同じ頃、フランスではニュー・リアリズム(ヌーヴォー・レアリスム)がピエール・レスタニー他9人のアーティストによって生まれました。その9人の中にはIKB(International Klein Blue-クラインが作った青系の色の名前)のイヴ・クラインや、ゴミを集めて透明の筒につめた作品で有名なアルマンが含まれます。

この宣言で、Art and Life が誕生します。その宣言は1960年4月16日に発行されました。


Pierre Restany, "First Manifesto of Nouveau Réalisme ,"日本語訳

アートの歴史の急なる進化や、モダンライフの無秩序なる異常なパワーを恐れた聡明な学術者や紳士達が、その手で時計の針を戻し、太陽や時間の行進を止めることに躍起になっていることは、虚しいだけである。

私達はすでに確立され終えた単語や言葉やスタイルが、消耗しつくされ硬化してしまった(*訳者注:新鮮さを失った状態である)ことに気が付いている。その因習的方法の不完全さ-にもかかわらずすでに枯渇した-はヨーロッパとアメリカにばらまかれた様々な交渉によって無効にされ始めている。この傾向は新しい表現を定義するものである。

油絵やインコスティック(*訳者注:蝋の様な絵の具を熱を使って描く昔の画法)には付け加えの方法は何もない(*訳者注:それらの画法はすでに完成されたスタイルを持っている。)イーゼルでのペインティング-絵画や彫刻等の領域における唯一無二の古典的な意味での表現-の時代は過ぎたのである。長期に渡る独占はその最期を迎えている-未だ時に高尚であるが-。

それでは、何を代わりに提案すれば良いだろうか?概念のプリズムや空想の編曲を通してではなく(*訳者注:抽象表現主義がオートマティズム等を用い「無意識」に注目していた事に対立するという意味だと思います)現実の知覚を熱心に探求することである。それは何を示すのか?コミュニケーションの本質部分の社会学的延長を導入することである(*訳者注:社会学、つまり人間社会の現実を見ること)。社会学は無意識と偶然を救済することによって(*訳者注:身の回りの事物すべてを意識を持って見るようにすること)生じる。品揃えの度合いやポスターの裂け目、物の外観の中に、日用に不用品や社会の廃棄物の中に、機械活動の停止装置やその認知力の感覚の分布の度合いの中等。

これらの試み-他にも方法は存在し、後にはさらに増えるだろう-はカテゴリーで理解される身の回りの物の偶然性(*訳者注:気付こうと思わなければ目に見えないもの、固定観念によって存在が素通りされる事物)と個々に表現された物の逼迫性(*訳者注:アーティストなどによって表現をすることに目的を置いて造られた物の-言わば見る側が押し付けられるような-感覚)との多大な距離を消滅させることを実現させる。これが表面に呼び覚まされた、社会学全体の真実である-生活においての公益、交流の世界、そして思想交換-。もし人々が思い込まされたでっちあげの永遠なる高貴なアート(*訳者注:アートに対する人々の固定観念)-特にペインティング-を信用しなくなるなら、現在のアートに対する使命はもう疑問に思われることはなくなるだろう。

時に突飛にも見えるが、私達は完全なる感情表現(*訳者注:加工された表現ではなく自然と溢れ出る、そこにある表現)と個別に作り出された巧みさ(*訳者注:巧みに表現されたプロのアート作品)の範囲の中にある純粋な感性の新しい真実の方向へ向かっている。最後に、これは未来への架け橋である。異なった地点への旅立ちが、此処パリにてイブ・クライン、ティンゲリー、アンス、アルマン、デュフレンヌ、そしてビルグレ(*訳者注:そこにはダニエル・スペリーとマーシャル・レイシもいたはずですが書かれていません))によって確立された。そしてもう一度言う、機は熟され、その帰結と絶対的な因習打破として予見できないものが生み出されるだろう-偶像の効力と崇拝者の愚行によって。

このように私達はダダイズムをゼロとした40度上-分度器で-のダイレクトな表現に陶酔している。ダダイズムのもつ攻撃性、リアリズムの正当化に対する切望、論争的な目的無しに。そしてこれは絶対的に効果をもたらすのである。この真実によって息を吹き返すことに成功する者がある時、ある者は感情、感傷、そして詩情さえも超越するのである。

ウォーホールの見た偽ヒューマニティ 1

2007年04月21日 00:18

20世紀の奇才アンディ・ウォーホールはアメリカのモダン文化に魅了されました。60年代のアメリカは人々の生活が豊かになり始め、大衆が商品を消費することで経済も潤うと言う、消費文化でありました。

その消費文化を象徴する物は「商品」そのものです。商品を売り・買い・捨て、そのサイクルを維持継続する為に人々は働きます。また「商品」には広告が付き物で、ストリートや家中どこにでも広告が見られるようになりました。

ひと目で強烈に印象に残る広告のデザイン、購買者はそれによって売る側の思うままに商品を購入します。また、テレビや映画に映る「アイドル」と言う名の商品。それらの送るイメージは商人に巧妙にコントロールされ、見る側(購買者)はあらかじめ商人によって予測された反応を示します。あたかも機械のように、赤いボタンを押したらスピードが上がるとプログラムされたような、画一的な反応。そのようなメカニカルなプロセスが生活の一部になった時代でした。

人々の中に違和感なく溶け込む無機質機械的なプロセスで、人々はあらかじめ決められた人間的な感情を引き出されることにウォーホールは気づきました。そして、そのプロセスは自分を含む世界を支配していることにも。

商品の機械的プロセスが容易に人々に受け入れられる理由は商品のデザインです。全ての商品の持つ冷たく無機質な機械的プロセスはデザインによって覆い隠されます。街中で見るポスターやテレビの広告は感情的で人間味溢れ、人々はその「人間らしさ」さえも販売の機械的プロセスの一部だとは思いません。人々の暮らしの中には偽のヒューマニティが溢れかえっていました。

ウォーホールはキャンベルスープの缶でこの文化を表現しました。キャンベルスープは彼の生活の中に自然に入り込み、彼の毎日のランチとして違和感なく、そこにありました。「無を表す何かを探していた。それがスープ缶だった。」キャンベルスープは彼にとって、アメリカ文化を表現するのには最適だったのです。

*続きは今度にします。と言って続きを書いた事ないですね。すみません。必ず書きますので…。

author: oldgold

パブリックアートと傾いた弧事件

2007年03月17日 20:51

パブリックアートとは街中に置かれたアートの作品のことを指します。特に現代アートでは1930年代のアメリカ政府のアーティストを救おう計画(FAPと呼ばれ、多分ニューディール政策の一部)が大きな影響を与えています。

この計画では景気回復のために街を飾ろうではないか、と言う目的もあったようですが、それよりもアーティストの救済に大きな役割がありました。不景気な国ではアートが遅れがちになるのは想像に難くないですが、その頃のアメリカも不景気(大恐慌)のためたくさんのアーティストが働く場所に飢えていました。

そこで政府自身がアーティストに委託し街中に大きなモニュメントなんかを作らせたのです。政府が委託をすると言うことは、当然出費は税金で賄われることになります。現代のパブリックアートは委託・制作費・場所など全部がパブリック(公的)というのが特徴でもあります。

1980年代にリチャード・セラも、そのようにして公的に依頼を受けて作品を作りました。その一つが「傾いた弧(Tilted Arc)」です。

セラは公的な建物のエントランスに置かれるスカルプチャーの依頼に応え、Tilted Arcをデザインし設置したのですが、それは鉄の板でできた高さも長さも壁のように大きく、しかも傾いているという物でした。そこの建物を使う人、その場所を通る人からは、じゃまで仕方がない、傾いているので怖い、鉄なので錆がでてそれが目に入る、などの苦情を受け、とうとうそれの排除に対して訴訟にまでなったのです。

セラはTilted Arcを、人々の動きが景色の変わり方と連動することを証明することや、大きな鉄の塊に対する人の心のリアクション(マテリアルの特徴を感じる)を引き出すことができる作品だと言い、それを排除することに反対しました。

しかし結局セラはGSAの妥協案である「場所を移す」ことには賛成せず、自らその作品を廃棄してしまいました。「この場所に置かれるように作ったのだから、他の場所では成り立たない」と言うのが彼の廃棄の理由でした。(*この考えはサイトスペシフィックアートに繋がりますが、それについては後で書くことにします。)

アーティストの端くれである自分が言うのもおかしいのですが、確かに「このような物に税金を使うのはよしてくれ」と思うようなスカルプチャーが街なかにあるのは確かです。役に立たないばかりか、危険を伴ったり、通行のじゃまになったり。しかし、便利さだけを求めて街中のアートを排除していくのも悲しいような気持ちになります。

みなさんは、このTilted Arc事件をどう思われますか?

author:oldgold

アートはエリートの物か

2007年02月18日 17:46

昨晩アーティストである友人と一悶着ありました。アートはエリートの物であるべきか、それともアーティストは見る人を選ば無いでいるべきか?

自分は後者の考えです。

相手の考え:あまりにも迎合しすぎるのは危険だ、なぜならアーティストの存在価値がなくなる。それに迎合するには自分の作品の価値を下げることにも繋がる。表現者であるアーティストは自分の作品が一般に受け入れられなかろうと、自分の信じる道を進むべきだ。わかる人にはわかるんだ。

自分:見る側に迎合しないで自分をアーティストであると言い張るのは、ただの自己満足であり、アーティストと言えるのか?見る人があってこそのアートであり、それこそがアーティストの存在価値じゃないか?それをして作品の価値が下がる程度では、そのアーティストはアーティストとは呼べない。

相手:それではゴッホのように死んでから認められた偉大なアーティストは価値がないと言うのか?

自分:君は死んでから認められたいか?生きている間に認められたアーティストの方が多いのは知っているだろう。それに近代美術と現代美術ではバックグラウンドが違いすぎる。

相手:受け入れられる物ばかり作っているのでは、他の職業と同じになってしまうじゃないか。アートは分野が違う。認められることだけを願っていては、上昇しない。

自分:他の職業とアーティストがどう違うって言うんだ?アーティストがアーティスト自身を、他と違う場所に置くことに何の意味がある?社会の中の一部として、そこで自分たちを磨けば良いことだ。

相手:昔からアートはエリートの物と決まっているんだ!何もわからない一般人に評価されたくは無い!

自分:君は生きた化石だ!森の中で暮らせば良いじゃないか!


と、この様に最後は喧嘩になってしまいました。彼の言いたいこともわかります。自分を磨く為に他人を気にしてはいられない。自分も他人を気にしてばかりでは良い物は作れないのは同意です。

しかし、今現在で成功しているアート(シアターはテレビで、ミュージックに至っては街中どこにでも)に比べ、自分たちのやるビジュアルアートは遅れを取っています。やはり、見る側に迎合することと、自分を貫くことの中間地点を見つけることは、大事だと思います。

見る側が何に興味を持つかを知ることは、自分にとってはとても興味深く、それを知るためのアートであるとまで思っています。人々が何を欲しがるが、それこそが文化だと思います。アルマンがゴミを集めて作品を作りました。自分はその気持ちはすごく良くわかります。ゴミ、イコール買ったもの、買う人が欲しがった物なのですから。

author:oldgold

みんな巻き込んでやる!

2007年02月17日 11:11

自分はアートは生活の一部であるべきだ、と思っています。それは美術館に行くことが当たり前になるってことではなしに、個人の家にアートがあるべきだってことです。もちろん美術館がもっと身近になれば良いとも思いますけどね。

各個人の家にあるアートと言われて思い浮かぶのは、部屋の壁に飾られる絵画だったり、棚にあるスカルプチャーだったりが多いと思います。あと、食器などの小道具でしょうか。でもそれだけでは生活の一部と言うには足りない気がします。

自分の作品は特にスカルプチャーが多く、またその作品には使用可能(ジュエリー等)な物が多いのですが、Art and Life を考えた時に物足りなさがあって、ジレンマを抱いていました。

ある少し有名なアーティストについて触れます。彼女の作品は小さなパーツを組み立てて作るものですが、それは一人では手に負えないほどの仕事量です。なので、パーツは彼女が作りますが組み立ては数人係でやるのです。アーティスト自身は作る作業の監督者でもなく、一緒に相談しながら作り上げるのです。

自分は「あーこれだ、これが欲しかったんだ」って思いました。そのアーティスト自身が、みんなで作り上げること自体に意義を持っていたかどうかは自分にはわかりませんが、自分は最終的にできた作品よりもその工程に大きな衝撃を受けました。

しかし、どのように多数の人(見る人全員)をその工程に巻き込むか?しかも各個人の家庭でそれを再現するということは、アーティスト不在のまま、アートに巻き込むのです。

自分は今考えています。今と言うよりも、自分の一生涯のテーマになっています。簡単には答えは出ないですね。

*追記*
上で触れたアーティストの作品で「みんなで作る」と書いたことに関して、もう少し詳しく書きます。その作品の綿密な最終形態は最後まで決まっておらず、作りながら決めていくようです。アーティストは元のピースと漠然としたイメージのみを用意するだけです。なのでアーティスト以外の組み立てる役の人は、ただの助っ人ではありません。一緒に作ってる感じが良いと思いませんか?

author:oldgold

プリミティビズム

2007年02月13日 12:10

プリミティビズム(primitivism)とは西洋の”進んだ”文化に嫌気の差したアーティストたちが、アフリカなど”原始的”な文化から美しさを見出した芸術的動きです。19世紀末にアンリ・ルソーがノーブル・サベージ【高貴なる野蛮人-ロマン主義思想によって理想化された原始の人間像-goo辞書より】と言う考え方に着目したことが始まりです。

情熱的で感情豊かで自然の中に生きる(と西洋人が勝手に思い込んでいた)、西洋以外の国の人々がアートに置いて注目されたのです。18世紀頃に起こった産業革命で人々は人間らしさを失ったんじゃないか?というのが、この動きの始まりです。同じルソーでも啓蒙思想のジャン・ジャック・ルソーとは180度反対の考え方ですね。

アンリ・ルソーの作品に「眠るジプシー女」というのがあります。ジプシーの女性が砂漠の真ん中で寝ており、それを見つめるライオンという構図です。それまでは絵画と言えば、西洋の貴族や美しい景色といった物が多く、異国人が前面に出てる絵画はとても珍しかったのです。

それに、彼の描く人物は真正面か真横の向きから描かれ、背景も奥行きの無い平べったい景色ばかりでした。今までの画家が苦労して表現したイリュージョン(平らなキャンバスをあたかも奥行きがあるように見せること)をばっさり否定したのです。

今までに無いタッチの絵が賛否両論を呼びます。だって、言ってしまえば子供の描いたような絵だったのですから。しかしルソーの考えに傾倒したのが、ゴッホやピカソやマティスと言った後の大画家だったのです。*ゴッホ、ピカソやマティスについてはまた後ほど書くことにします

しかし、なぜ今回プリミティビズムについて書いたかと言うと、そのネーミングに異議があるからです。プリミティブ(primitive)を辞書で調べると「原始的な」と出てきます。いかにも西洋人らしい、自分たち一番!と言う考え方が顕著に現れていると思います。

当然日本もプリミティブであると位置づけられています。暮らし方や文化が違うと言うだけで、西洋よりも原始的であると決め付けるやり方に、とても不満を感じます。

個々の違いを認められず、劣るとしか評価できない者にアートなんてできるか!と言いたいところですが、きっとプリミティビズムと名付けたのはアーティスト自身では無いでしょうから、この辺で終わりにします…。

author:oldgold

ハプニング-パフォーマンスアート-

2007年02月11日 10:01

パーフォーマンスアートって何?それはアーティストが作り出す最終的な物(芸術作品)は大事じゃない、それよりもその物を作る過程に意味があるって考えのアーティストが新しく考え出した一つのアートの表現方法です。

元々はジャクソン・ポロックの1940年代にはじめたアクションぺインティングが「パフォーマンスアート-過程を見せるアート-」の始まりになると思いますが、1950年代にアラン・カプローが予告なしに街中にタイヤを大量に置いたりして、新しいアートだって言い始めました。街中だから、アートに関心の無い人々も彼のアートの中に巻き込まれます。それが、「ハプニング」のあり方。カプローはアーティストとそれを見る人の隔たりをできるだけ少なくしたかったのです。Art and Life の始まりです。

ハプニングでは数人のアーティストが一つの建物を3つに仕切り、6パートに分れた18のパフォーマンスアート(ハプニング)を見せました。18のハプニングは関係性をもたせた連続の違うパフォーマンスだったり、全く違う他のパフォーマンスと同時に進行したりしました。観客は色んなハプニングに見舞われます。アートの中に生きている状態です。観劇との違いは、巻き込まれ方が半端じゃないってことでしょうか。それに台本も構成もありません。その即興性も見所でした。1950年代から1960年代初めまで幾度かのハプニングはカプローを始め、ロバート・ラウシェンバーグ、ジム・ダイン、レッド・グルームスなどかなり多数の有名なアーティストによって行われました。

体にペイントを塗られる裸の女性がいたり、狂人の様に歩き回るパフォーマンスがあったり、建物を焼こうとしたり、それは今までに見られたアートとはずいぶん違う物でした。

ところで、これってアートなの?うーん・・・やっぱりアートなんでしょうね。見る人に何らかの感情を引き起こさせることを企んだ人が、何かを作り出し、それによって見る人の心を(どういう方向であっても)動かす。その時点でアートなんですね。でもこれもアートと言えるなら、美大などに行ってデッサンをしまくったり、色の勉強をしたり、美術史(アートセオリーとか)を習ったり、必要じゃなくなったのかな?難しい問題だなぁ。でもタイヤを置いたり、建物を燃やすのに、筆の使い方の勉強はいらないしなぁ。それなら、心理学を学ぶ方が必要かもしれない。

みなさんはどう思われますか?

author:oldgold

*追記*
本を読み返すと、アラン・カプローはハプニングの後に、タイヤを積んだアート「ヤード」を行ったようです。順序を逆に書いてしまいました。すみません。

ポップアート ― ウォーホールの言葉

2007年02月10日 19:02

ウォーホールは「機械になりたい」「みんな同じだったら良い」って言いました。この意味をアーティスト数人と語り合いました。

出た案1.機械になりたいってのは、有名になるよりもずっと絵を描き続けてられたらいいのになってことではないか?

出た案2.いや、ウォーホールは有名になりたいって言ってたの、どっかで読んだ。だから機械になりたいってのは、機械みたいに同じ物をいくつも作ることに意味があると思ったんじゃないか?その辺りが「みんな同じだったら良い」って言葉に繋がるんじゃないか?

出た案3.いや、それはミニマリズムだ。それより、アーティストは特別な存在じゃない。機械が何か作るみたいに、アーティストも買う人が欲しがるもの(観客の見たいもの)を作るだけの存在だって意味じゃないか?そこが他の職業(又は機械)と変わらないってことで「みんな同じだったら良い」って言ったんじゃないか?

出た案4.シュルレアリスムとか抽象表現主義が機械に対抗したことに対抗して「機械になりたい」って言ったんじゃないか?

話しても答えは出ないんですが、自分の案は3です。みなさんはどう思いますか?

author:oldgold

アートがテレビみたいに普通に皆が楽しめれば良いのにな

2007年02月10日 15:31

なんでアートって、なにかちょっと一般の生活と隔たりがあるんでしょうかね。アートのことがわかれば、美術館に行くにも楽しくなる…けれど、アートのことがわかっていなくても楽しめれば良いのにな。

この前アーティスト数人と話していました。「アートって軽んじられてるところがあるね」「勉強する意味が無いみたいな感じでね」「勉強したこと無いくせに、簡単だなんて失礼だね」「アートを理解できないくせに、軽んじるなんて、バカ丸出しだな」と言う感じの会話です。意味するところは「アートは高貴な物であり、ただ鑑賞するだけでもそれなりのインテリジェンスはいる」といった感じでしょうかね。

自分は口にできませんでしたが、こういう考えだからアートって馴染み深くならないんじゃないの?と思いました。軽んじられて良いじゃないか。簡単な物だとたくさんの人が思えば、もっとたくさんの人が生活の一部としてアートを捕らえてくれるじゃないか。もっと言えば、アーティストになろうと思う人が増えて、また色んな可能性が広がるじゃないか。

自分は目指せテレビ、と思っています。テレビまで行かなくても、せめて映画くらいにはなって欲しいな。

author:oldgold


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