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社会vsアート か 社会andアート か

2007年12月05日 11:49

前回あまりの自己嫌悪から、つまらないことを書いてしまいました。申し訳ありません。コメントを頂けたことを大変嬉しく思います。

しかしながら、新たに疑問がうまれましたので、それを記しておこうと思います。

アートはすべからく命が吹き込まれたものであるべきなのでしょうか。私はそうは思いません。アート以外にも命を懸けて創造される事物はたくさん存在します。しかしながら創造者が命を懸けようが懸けまいが、人々の興味、関心には全く関係ないものだと思います。それこそアーティストのおごりではないでしょうか。ビジネスの世界では気持ちを込めた仕事であろうと、成功しなければ無意味な労力で形が付けられるでしょう。心を込めなかろうと成功すれば、有能なビジネスマンと認められるでしょう。(*今までに私はたくさんのアーティストの中にアートをやるポーズとしての命の吹き込みも何度も見てきました。それは私が何よりも嫌うところです。例え人々に関心を持たれようと、意味がありません。)

アートは敗者の傷の舐め合いの場ではありません。レボリューショナルな自己満足の時代は過ぎたと思います。数十年前までのトレンドを引き継ぐなら、それが彼のアートでありましょうが、使い古されたコンセプトであり、人々に新しい興味と関心を抱かせるもではありません。なぜなら時代が過ぎたからです。懐古主義であることを認めること以外には、アーティストとしての存在を主張できるもではないと思います。

アートとは(人々のマジョリティにおいて)それほどまでに”特別”に扱われるべきものなのでしょうか。生死観までも語るべきものと思ってはいけないのではないでしょうか。創造に苦しむのは創造者の常であり、生きることそのものであるとは理解します。しかしながら、アーティストだけがその苦しみやその他の感情を見せ開かしている、そしてそれを黙認してもらっている状況は私には恥ずべき事態だと感じます。それともこれ(個人的な感情の押し売り)がある範囲でのアートの存在理由なのでしょうか。

コメントを頂いたアカネさんや岩手もり子さんの哲学を否定しているとは思わないでください。二方はアーティストにおけるアートの存在意義を書いてくださった。気を悪くされる事は想像に難くありませんが、お許しください。私はマジョリティにおいてのアートの存在意義が知りたい。

author:oldgold
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